中央アジアのイラン系民族。タジキスタンには約550万人が居住し、同国の全人口の約80%を占めています(2000年推計)。そのほかウズベキスタンにはブハラやサマルカンド、フェルガナ地方などに約130万人(全人口の5%)が居住し、クルグズスタン(キルギス)にも数万人のタジク人が住んでいます。
「タジク」(tājīk, tāzīk, tāzhīk)という語の起源については諸説あり、現在のところはっきりとしたことはわかっていません。しかし、この語は本来、異民族に対するイラン系民族(より正確にはイラン系民族の中でもペルシア語を母語とする人々)の呼称として古くから広く使用されてきたものです。ペルシア語文献中では、古くは11世紀に著されたガズナ朝の歴史書『バイハキー史』にその用例が見られ、そこではテュルク(トルコ)やアラブなどの異民族の名称と対比させる形で「タジク」の語が使用されています。それ以降、様々な地域で著されたペルシア語文献にも同様の用例を多く見いだすことができ、カラハン朝期のテュルク語文献『クタドゥグ・ビリク』(11世紀)やアラビア語文献『テュルク語辞典』(11世紀)にもその用例が見られます。このように、「タジク」という語は、現在のイラン、アフガニスタン、中央アジアを含む広い地域でイラン系民族を意味する一般名称として使用されていました。この語が中央アジアのイラン系の人々だけを指す民族名称として一般的に使用されるようになったのは、19世紀後半に帝政ロシアが中央アジアを征服し、ロシア人が現地のイラン系民族に対してこの語を使用して以降のことと考えられます。
ソ連時代の歴史学によれば、タジク人の起源は紀元前2000-1000年期初頭に中央アジアに現れたイラン系民族にまで遡り、この地域で独自の文化を築き上げたソグド人やバクトリア人、ホラズム人、パルティア人などのイラン系諸民族を直接の祖先とする中央アジア最古の民族とされています。中央アジア南部のオアシス地域は7-8世紀にアラブ軍によって征服されましたが、9世紀後半にはこの地域にイラン系のサーマーン朝(875-999年)が興りました。タジク語や現代のイランのペルシア語のもととなった初期近世ペルシア語の文章語は、この時期にマー・ワラー・アンナフル(トランスオキシアナ、中央アジア南部のオアシス地域)やホラーサーン地方(現在のイラン東北部)において成立し、「ペルシア語詩人の父」と呼ばれるルーダキーを始めとする多くの文人や学者たちがサーマーン朝の首都ブハラを中心に活躍し、独自の文化が花開きました。しかし、その後マー・ワラー・アンナフルに北方からテュルク系遊牧民が侵入し、定住するようになると、それまで住民の大多数を占めていたイラン系民族とテュルク系民族の融合(テュルク化)がおこることになりました。とくに、16世紀以降のウズベク人の侵入・定住化により、住民のテュルク化は一層進展することになりました。これにより、タジク語を話すイラン系の人々は少数派となり、ザラフシャーン川上流とアム川上流の間の山岳地方とブハラやサマルカンド、フェルガナ地方など一部のオアシス地域に居住する人々が残るのみとなってしまいました。さらに、オアシス地域に居住する人々の多くは混住するテュルク系定住民と共通の生活習慣を持っており、定住民の間では特定の民族への帰属意識が希薄であったということも指摘されています。タジク人が一つの民族としてまとまったのは、1924年のソ連中央政府による中央アジアの民族・共和国境界画定の結果、ウズベク共和国内にタジク自治共和国が成立して以後のことと考えられます。
ソ連時代以降、タジキスタン東部の山岳バダフシャーン自治州に住むパミール諸民族を「パミール・タジク人」と呼び、タジク人に同化させようとする傾向が見られますが、彼らは歴史的に独自の民族意識を持っており、イラン語派東部グループに属する彼らの言語はタジク語とはまったく異なる言語です。中国の新疆ウイグル自治区に住む塔吉克(タジク)族もイラン語派東部グループに属する言語を話し、タジク人との直接的な関係を指摘することは難しいです。また、信仰の面でも、タジク人がスンナ派イスラームを信仰するのに対し、パミール諸民族と中国の塔吉克族はシーア派の一派であるイスマーイール派を信仰しています。
【参考文献】
『世界民族事典』弘文堂 2000年
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