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タジキスタン概要

 タジキスタンは、中央アジアの南東部に位置する内陸国で、ウズベキスタン、アフガニスタン、キルギス、中国と国境を接しています。国土面積は、14万3100km2で日本の4割程度の広さです。総人口は、ソ連時代の1989年に行われた国勢調査を最後にきちんとした調査がなされていませんので正確な数字は不明ですが、約680万人と推計されています(2005年)。
 首都はドゥシャンベで、1989年時点の人口は60万5000人でしたが、現在は郊外地域も含めれば100万人近くの人口があるのではないかといわれています。ドゥシャンベとはタジク語で「月曜日」を意味し、かつて月曜日に市(いち)が立つ村であったことに由来しています。1929年から61年まではスターリナーバード(「スターリンの町」の意)と呼ばれていました。

■国土

 国土の93%が山岳地であり、さらにその50%が標高3000m以上の高地という険しい地形の国土です。東部には6000〜7000m級のパミール高原の山々が連なり、国土のほぼ中央を東西に横断するようにヒサール山脈やザラフシャーン山脈、トルキスタン山脈、アライ山脈が連なっています。首都ドゥシャンベと北部の中心都市であるフジャンドは、これらの高い山脈によって隔てられており、これらの山脈は国土の南北を分断する障壁となっています。低地は北部のフェルガナ盆地や南西部のヒサール盆地、ヴァフシュ盆地などに限られ、人口の大部分がこれらの地域に集中しています。主な河川は、アフガニスタンとの国境を流れるアム川(上流部はパンジ川と呼ばれます)とその支流であるヴァフシュ川やカーファルニハーン川、北西部を流れるザラフシャーン川、北部のフェルガナ盆地を流れるシル川などがあります。

■産業

 タジキスタンの主要産業は農業で、可耕地は国土の5.4%にすぎませんが、労働人口の67.2%が農業に従事しています(2000年推計)。ソ連時代以来、南西部のヒサール盆地やヴァフシュ盆地、北部のフェルガナ盆地を中心に綿花栽培が行われており、主要な輸出品の一つとなっています。その他、小麦、大麦、ジャガイモ、稲、野菜、果物(メロン、スイカ、リンゴ、ブドウ、アンズなど)などが栽培され、家畜としては牛、羊、ヤギ、ヤクが飼育されています。ソ連時代の1930年代より工業化が進み、急峻な地形と豊富な水を利用した水力発電とその電力によるアルミニウム精錬が工業の中心となり、現在でもアルミニウムは主要な輸出品の一つです。また、鉱物資源も豊富で、ソ連時代には鉛、亜鉛、水銀、タングステン、モリブデン、アンチモンの採鉱も行われていました。

■民族・言語・宗教

 住民の主な民族構成は、タジク人79.9%、ウズベク人15.3%、ロシア人1.1%、キルギス人1.1%(2000年推計)となっており、その他タタール人、朝鮮人、ウクライナ人、ドイツ人などが居住しています。1989年の国勢調査の際にはロシア人の割合は8%でしたが、ソ連崩壊や内戦勃発により国外移住が進み、現在でもロシア人の人口は減少しつつあります。ウズベク人は、主にフェルガナ盆地や南部のハトラーン州に多く住んでおり、ドゥシャンベ市にも意外に多くのウズベク人が住んでいます。
 国家語はタジク語で、ロシア語も民族間交流語として現在でも広く使われています。東部の山岳バダフシャーン自治州には、タジク語とはまったく異なる言語を話すパミール諸民族が住んでおり、彼らは歴史的に独自の民族意識を持っていましたが、ソ連時代以降彼らをタジク人に同化させようとする傾向が見られ、現在では彼らを「パミール・タジク人」と呼び、人口統計上もタジク人として数えられています。宗教はおもにスンナ派イスラームですが、パミール諸民族のほとんどがシーア派の一派であるイスマーイール派を信仰しています。

■歴史

 現在のタジキスタンやウズベキスタン南部の領域は、バクトリア人やソグド人など古代よりイラン系民族が居住してきた土地です。9世紀後半にイラン系のサーマーン朝が興り、首都ブハラ(現在ウズベキスタン領)を中心に独自のイラン・イスラーム文化が勃興しました。その後、13世紀にはモンゴルの、14世紀にはティムール朝の支配を受け、16世紀のシャイバーン朝成立以降、この地域の大部分はブハラ・ハン国などウズベク系王朝の支配を受けることとなりました。つまり、サーマーン朝滅亡後は、ずっとモンゴル系やテュルク系の王朝の支配下にあったということになります。1860年代の帝政ロシア軍による中央アジア侵攻により、フジャンド地方など現在のタジキスタン北部がロシア領に併合され、パミール地方の大部分も1890年代にはロシア領となりました。タジキスタン南部及び西部はロシアの保護国となったブハラ・アミール国の版図に留まり、東ブハラ地方と呼ばれました。
 1917年のロシア革命後、旧ロシア領はトルキスタン自治ソヴィエト共和国に、東ブハラはブハラ人民ソヴィエト共和国に編入されることになりました。その後、ソ連中央政府は中央アジアの民族・共和国境界画定を決定し、その過程でタジク人は民族共和国を形成しうる「民族」と見なされ、「中央アジアのイラン系言語(タジク語)を用いる定住民」という定義が明確化されるとともに、歴史上初めてタジク人の領域国家としてのタジキスタンが形成されることになりました。しかし、タジク人は十分な発言力を得られず、境界画定の結果、その領土は東ブハラの山岳地域周辺に限定されることになってしまいました。こうして1924年にウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内にタジク・ソヴィエト社会主義自治共和国が成立しましたが、この境界画定は、タジク人が多く居住し、その文化的中心地であるブハラとサマルカンドをウズベキスタン領とし、東ブハラ地方をそれまで政治的にも経済的にも深い結びつきを持っていたブハラやサマルカンドから分断したという点などで問題の多いものでした。この時期、新生タジキスタンの国家建設のためにブハラやサマルカンドから移住してきた人々も少なくありません。1925年にはパミール地方に山岳バダフシャーン自治州が設立され、1929年にはウズベキスタンからフジャンド地方を編入し、タジキスタンは連邦構成共和国に昇格しました。
 そして、1991年9月9日、ソ連崩壊の過程で独立を果たし、現在のタジキスタン共和国となりました。独立後の民族意識高揚の流れの中で、過去の民族遺産を顕彰する諸事業が行われ、一部の知識人の間ではソ連時代の民族政策の問題点を指摘し、ブハラとサマルカンドのタジキスタンへの帰属替えを主張する者も現れています。

■内戦

 ペレストロイカ末期以降、タジキスタンでは民主化運動やイスラーム復興運動が勢いづき始めましたが、旧共産党勢力はこれに反発し、1991年11月に行われた大統領選挙では元共産党第一書記のナビーエフが当選しました。民主派とイスラーム主義者は連合してこの政権に反発し、1992年3月よりドゥシャンベのシャヒーダーン広場で集会を開きました。これに対し、大統領支持派も4月からアーザーディー広場で集会を開き、両者の対立は5月には銃撃戦に発展しました。6月にはクルガンテッパ(クルガンテュベ)州で戦闘が始まり、本格的な内戦に突入することになりました。ナビーエフ大統領は9月に辞任し、11月にはラフモノフ現大統領が最高会議議長に就任し、ロシアとウズベキスタンの支持を受けた旧共産党勢力による政府が組織されました。93年3月頃までには政府側勢力がタジキスタン全土をほぼ制圧したが、それ以降も反対派による武力闘争が続きました。さらに、政府側勢力内部での対立や分裂が表面化し、内戦の構造はより複雑化することになりましたが、その背景には国内の地域対立や指導者間の権力闘争があったと考えられています。そして、国連や関係諸国の仲介により1997年6月に政府とUTO(United Tajik Opposition タジク反対派連合)の間で和平合意が成立し、5年間にわたる内戦は一応の終結を見ることになりました。しかし、98年7月には日本人を含む国連タジキスタン監視団員4名の殺害事件が起こるなど、混乱した状況はしばらく続きました。この内戦による死者は4〜6万人に及ぶといわれ、30万人が難民となったといわれています。


【参考文献】
『世界民族事典』弘文堂 2000年
『中央ユーラシアを知る事典』平凡社 2005年




その他、タジキスタンの概要については外務省各国情勢CIA The World Factbookもご参照ください。


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